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人生が大きく変わる本、というのに私が出会うのは二冊目だった。
一冊目は「ハッピー・バースディ」というタイトルだったと思う。
もう小学校の頃に読んだからあまり内容は覚えていないが、当時の私にとっては凄い衝撃だった。
何度読んでも何度も泣いた。
その作品が感動できるものだったからではなかったと思う。
その作品の主人公を自分に当てはめ境遇を嘆くことによって衝撃だったのだと思った。
こんな境遇の例に出会えたことは幸運だ。
私は小学生なりにそう思っていた。
私は人生には『壁』と呼ばれるものがあることを知っていた。
それを目の前にするたびに私は悩み、酷く傷つき、成長できる。
だから私の目の前に登場する『壁』は私の成長できる場である。
例えば私は運動が苦手だ。
だからすぐに息切れしてしまうし、疲れてしまうし、へとへとになってその後に響く。
でもそれは私にとっての壁だ。
だから私は苦手な運動を、最近に置き換えれば去年のマラソンだ。
たった一回のマラソンのために私は自分の身を粉にして奮闘するのが好きだった。
元々一つのことに熱くなるのが好きな性質のせいかもしれない。
周りの人は「いやだいやだ」と言う。
私も一緒になっていやだよね、というけど心の中で楽しんでいた。
この前まではここまでで息が切れていた、今日はいくついくつ早く走れた。
自分の目標をたてることによって、それを達成していくことによって私は喜びを感じた。
自分は自分のなりたい自分に少しずつ近づいている。
だから私は学校の行事一つ一つが楽しくてたまらない。
私みたいな人はきっといるけど、私みたいに他の人に合わせているからあまり出会えないんだと思う。
それとも私が不思議なのだろうか。
とりあえず、どっちでもいい。私は一つのことに熱くなるのが好きで、自分の目の前の壁に喜びを感じる。
この壁を乗り越えた先にはどんな自分が待っている?
そう思うと楽しみでたまらなくなるからだ。
さて、人生に影響を与えた二冊目の本についての話題だった。
私はこの本に出会ったのはこの夏の担任の提案があったからだ。
「 読書感想文の本を指定する。 」
最初はコイツなに言ってんだ、と思っていた。
でも内心、先生が勧める本ってどんなものだろう、と興味があった。
先生はその本を読ませて私たちに何を考えさせたいんだろう。
先生のお勧めする本を読んで私たちは、いや、私はどんな成長ができるんだろう。
どんな知識が得られる?どんなことが分かる、どんなことを考えるようになる?
私はそうしてご馳走を目の前にして食べたいという感情を押し上げるように
先生のお勧めした本に興味を持った。
とまあ、思っていたとしても口に出せばきっと「優等生ぶっている」だとか「変わった奴だ」とか「媚を売っている」
と言われ思われることが多い時代だから口には出さなかったけど。
でもこんなネット上の世界だったら現実の私とここの私を直接的に繋ぐひとなんて沢山はいない。
現実の私を見て、ネット上でこんなことを言う人なんだよね、なんて言ってくる人はまずいない。
私はそう思われたくてネット上の、誰が見るかも分からないブログにこんなことを書いているわけでもないから。
だからこのことを提言すれば、理解できる人ならば現実の私に口出ししない。
私は今こうやって言えているような人間になりたい。
でもそれはあまりにも身勝手な自分もあるからなりたくない。
そんな狭間で私は現実の私とこの文を書いている自分を区別している。
だからどうか、現実の私に会ったことがあったり、話したことがある人は現実の私とここの私を混濁させないで欲しい。
「○○さんの話は難しいよね」じゃなくて「○○さんの"ブログ"の話は難しいよね」と一工夫。
そうしてもらえるとありがたい。
して、何度も議題からそれている。
話を戻すと、そうだった、人生の~だ。
それでわたしはその本を読んだ。
本のタイトルは『手紙屋』だ。
この本が有名なのかどうなのかは私は知らない。
でもこの本は私によって人生に影響を与える本となったことは確かだろう。
まだ私はそこから一歩も動いていないけど。
『手紙屋』を読んで私は非常に苦しんだ。
読んでいる最中ずっと苦しくて苦しすぎて何度も涙して文字が読めなくなった。
それはホラーだから、とか哀しいから、だとかじゃない。
以前の私は確かにわかっていたのに現在の私はそれを忘れてしまっていたからだった。
以前の私は勉強が何であるかを完全に理解していたなんて厳かなことは言わないが、
でもなんとなくは分かっていたと思う。この本を読んでそう確信した。
私は確かに努力をして勉強というものを使って人の心を知ろうとしていた。
でも今の私はどうだろう。
人の優越をつけるために勉強をみていた節がないとは言い切れない。
私はそんなもので人の価値を、値踏みをしたいわけでもない。
だから親に○○ちゃんは勉強はどうなの、と聞かれるときまって不機嫌になった。
人の価値は勉強じゃなくて行動力だ、意志だ、貫き通す心だ。
そう感じていたからだ。
その点で私は他の人よりもちょっぴり人というのが分かっていたのかもしれない。
言葉っていうのは簡単に人を傷つけられる。
だから私は言葉で人を傷つけたくないと思った。
できる限り私は言葉をその人を知るアイテムとして使おうと思った。
でも今の自分は自分の心を他人に押し付けるためだけの発信機として使っている。
受信機もつけないと相手の心は私には届かない。
相手が厳かだな、と思ったとしても私は中学時代それを甘んじた。
それは優しいといわれたけど、優しいんじゃない、逆だ。
私は人に優しいわけでも人に優しくできるわけでもない。
できていると思われてるかもしれないけどそれは違う。
わたしは人を傷つけるのが怖いから、八方美人を演じようと躍起になっていた。
だから私は気になることがあっても極力黙ったし、黙りすぎて自爆を何度も起こしていた。
今は丁度良くガス抜きできるようになったけど、ガス抜きしすぎだ。
私の今の言動は人を傷つけてる。
だけど貴方の言動も私を傷つけている。
それはお互い気づかなかったりしている。
私から歩み寄ることも大切なのかもしれない。
でも、貴方も歩み寄って欲しい。
何度も何度も起こる障害を私はずっと一人で登って登ってをくりかえせるほど大人ではない。
私を理解して欲しい、私もあなたを理解したい。
ずっとそう思っている。
私が人間不信になったときは私は身勝手ながら歩み寄って欲しい。
貴方が悩んでいるとき、わたしは身勝手ながら力になりたい。
そうおもっている。
だからあなたたちは私を利用するだけでいい。
利用して私から何か得てくれるのならわたしは使い捨てで構いません。
そう思って生きてます。
これが私の生きる、っていうことです。
この考えを私は小学校時代からなんとなくもっていた。
他人に理解して欲しいけど、その人が理解したくないというのならば仕方ない。
でも理解してくれるのならば理解して欲しい。
そんな曖昧な感じです。
生きる意味がわからないっていうのを聞いたことがあるけど、
それは生きていていつかわかったりすることだから確実な答えを求めても無駄だと思っている。
だから、ゆっくりゆっくり時間をかけて、相手を理解して自分を理解して、自分を確立して、
自分の生きるを見つけてください。
以上、上から物言いですいません!
そんな曖昧な感じで生きてます。
高校二年なのにこんな大仰なこと言ってて黙れksとか思ってるかもしれないけど、
まあそれも読んでる人の大事な意志ですからね。良しとします。
読んだ人はどうぞこの文煮るなり焼くなりどうぞ。
特に言ったことに後悔も覚えてません。むしろスッキリ~です!
この文でもし何かを感じてくださったら、一言いただけると嬉しいです。
想像上にだけある尻尾振って待ってます。
ちなみに「手紙屋」という本はきっと私立図書館にあると思われる本です。
受付で聞くなり探すなりして読んでみるといいと思います。
きっとその努力が報われるようなものを得られると思います。
暇がありましたらどうぞ読んでください。
この本は特に学生が読むと将来をあやふやに考えていたり、今ぐうたらしている自分に不安を感じている自分には
とっておきのスパイスだと思われます。
そんな感じで仙台レポをまったくする気のない自分です。
仙台たのしかたー!
書いて暫くたってからの私・↓
ヽ(*´∀`)ノなにこれ恥ずかしい、バルス!
下げるかも、バルス!